中洲築立百周年の歴史 横田 好太郎記 から引用
◎中洲は特別な歴史を有する。
江戸時代初期の中洲は、隅田川の分次点で、〈三俣:みつまた〉と呼ばれ、江戸随一の納涼観月の所として聞こえていた。
江戸名所・古地誌を今日に伝える『江戸名所記』に、「……月と花ところはおほき中に、すまあかし(須磨明石-兵庫県)はことさらにその名たかけれども、三俣(中洲)の月にはよもまさらじといへり。……」とある。
観月の名所、須磨明石に勝さる〃日本一の中洲の観月〃と言っている。
◎江戸時代中期の明和九年(一七七二年)に隅田川の分流点の洲であった中洲は築立されて、〈三股富永町〉としてその後繁栄することとなる。
道楽山人の『中洲雀』に、「わけて月の名所は、外に中洲の涼所と、近来の大賑いも更なり。川岸には水茶屋行儀能軒をつらね、料埋茶屋跡先を押へて、船路陸路の客を留む。」
今から二百十年以前のことであった。しかし、寛政の改革の倹約令、緊縮政策の下、文化遊興地であった中洲は取り壊され、元の″洲″に戻されてしまう。
◎時代は移り、明治維新を迎えた。
明治も過ぐること十九年ニハ八六年)、中洲は再び築立され、中洲町として同年四月に旧日本橋区に編入される。
明治から大正期にかけ、中洲には『真砂座』の開場かおり、また、両国橋から新大橋、清洲橋をはさむ中洲附近は〈大川端〉と呼ばれ、大いに栄えることになる。
小山内薫作の小説『大川端』は当時の中洲の繁華な様子を今に伝えている。
佐藤春男の小説『美しき町』は中洲を舞台とした傑作であり、その他谷崎潤一郎、永井荷風等多くの作家の作品に描かれている。
④昭和時代に入り、大川端での繁栄を浜町等と分かもあっていた中洲も、第二次世界大戦で全てを消失してしまった。
戦後の動乱を経て、中洲には料亭・割烹が復治し、住民の生活が鮮える。
さて、伊勢湾台風の高潮被害に学んだ防潮堤の建設と、経済の高度成長による交通事情緩和のため高速道路が架設された。
また、昭和四十七年六月には箱崎にシティエアーターミナルが竣工した。
こうした状況下、中洲の環境は一変する。箱崎川は埋め立てられ、男橋・女橋は姿を消した。料亭の跡地には、高層マンションが次々に建設された。
◎この様に中洲は日本橋地区でも特別な歴史を特つ地であり、明治の築立から本年で記念すべき百周年を迎えることとなった。
『江戸名所図会』 斉藤月岑著
長谷川雪旦絵
〈絵中の狂歌現代語解・半井ト養〉
山もあり また
船もあり 川もあり
数は ひとふた
みつまたの景
平成23年4月 Wikipedia から引用
中洲はもともと文字通り隅田川の中洲であった。川が三方に分かれていた地点にあったため一帯はみつまた(「三派」「三ツ俣」「三つ股」など表記が多数存在する)とも呼ばれたが、具体的にどの流れを指したかについては諸説ある。また、付近の海域は淡水と海水の分かれ目にあたるため、別れの淵と呼ばれた。月見の名所として有名で、舟遊びで賑わった。
1695年(万治2年)吉原の遊女高尾太夫が中洲近くの船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話がある。
1771年7月27日(明和8年6月16日)馬込勘解由により浜町と地続きになるように埋め立てが行われ、1773年1月10日(安永元年12月18日)に中洲新地として竣工した。1775年(安永4年)には町屋が整い、富永町と号した。間もなく飲食店が立ち並ぶ一大歓楽街となり、両国の客を奪うほどの賑わいを見せた。しかしながら、隅田川の流路を狭めたために上流で洪水が頻発し、また奢侈を戒める寛政の改革の影響もあって1789年(寛政元年)取り壊され、芦の茂る浅瀬へと戻った。この時の土砂は隅田土手の構築に利用された。
1886年(明治19年)再び埋め立てられ、中洲河岸が成立、後に中洲町となった。1893年(明治26年)真砂座ができると、中洲は娯楽街として再び賑わいを取り戻すかに見えたが、大正期には早くも廃れた。
1935年(昭和10年)中洲に改称する。1947年(昭和22年)より中央区日本橋中洲。1971年(昭和46年)そのまま住居表示が実施された。1971年(昭和46年)に浜町との境、翌年に箱崎町との境が埋め立てられ、完全に地続きとなった。
マンスリーとーぶ No.746 から引用
東京スカイツリーが道案内2
隅田川の“橋”めぐり
それぞれが、美しい景観をつくりだしている隅田川の橋。今回は、「蔵前橋」から海の方へと…小さな旅を楽しんでみよう。いまや634メートルという高さに到達した「東京スカイツリー」が少しずつ角度を変えながら、多彩な表情を見せるのも面白い発見だ。
納涼に花火に、隅田川の賑わい。
隅田川の流れに、落ち着いた風情を映す黄色の橋は「蔵前橋」。この色も、一説には米のモミガラ色を表すといわれるように、右岸一帯は昔、幕府の年貢用米蔵(浅草御蔵)が建ち並んでいた場所だ。そこから蔵前の名が生まれたし、町も栄えた。もっとも橋が架けられたのは後年の昭和2年。関東大震災後の復興計画によるもの。今も、どこかずっしりと安定感があって頼もしい。高欄には、周辺の往時を偲ぶように、隅田川名物の屋形船や、江戸名所の“首尾の松”がある風景、また関取の姿などが描かれていて、興味深い装飾になっていた。
そして次に渡るのが「両国橋」。創架は万治2年(あるいは寛文元年)に遡るため、数多い隅田川の橋の中でも2番目に架けられた歴史をもっている。武蔵国と下総国の両国を結ぶことから、この名前で親しまれるようになった。とにかく当時、この大橋からの眺めは素晴らしく、両岸に開けた界隈は、またたく間に江戸町人の一大遊興の地となったとか。殊に夏は、風流な夕景の中で納涼を楽しむ人々で賑わった。橋を中心に、上流と下流で「玉屋~建屋~」の歓声がわく、今に続く両国の花火大会が始まったのもここからだ。近くには、江戸文化散策にふさわしい史跡や施設の数も多い。
逞しい「永代橋」…優雅な「清洲橋」。
江戸の頃に架けられた橋は、最初は木橋だった。もちろん今は変わっているのだが、いずれも当時の姿を想わせる。
「新大橋」も古い橋で、元禄時代に3番目の橋として架けられた。左岸・深川の住人だった松尾芭蕉は、橋の誕生を“ありがたや…”という句に詠んだ。界隈には芭蕉記念館や彼にまつわる史跡が点在するから、ちょっと寄り道してもいい。
一方、お隣の優雅な曲線の橋は、清澄町と日本橋中洲を結ぶことから「清洲橋」。昭和3年に、ドイツのライン川に架かる“ケルンの吊橋”をモデルに完成した。ライン川の橋は残念ながらもう姿を変えたが、隅田川の美しい橋は健在で貴重な存在となった。同時に、いまや「東京スカイツリー」を望むビューポイントとしても、おすすめの景観を見せている。
この「清洲橋」の美しさを女性的とすれば、やがて現れてくる「永代橋」の魅力は男性的だと、よくいわれる。江戸時代、“深川の大渡し”があった所に造られた木橋は、何度も架け直され、大正15年に、今のような雄大で重量感のある橋に再生した。東詰にある記念碑を見ると、あの赤穂浪士たちが討ち入り後、ここで温かい甘酒粥の接待を受け、橋を渡って泉岳寺に向かったと伝わっている。そうしたシーンにさえ、ふさわしい佇ふまいだ。
振りかえれば“634”が見える。
一方、「清洲橋」と「永代橋」の間には、「隅田川大橋」がある。これは斬新な2階建ての橋。上を首都高速道路が走り、下の一般道路や広いオープンスペースでは、素晴らしい展望が楽しめる。こうして時の流れとともに、橋も役割や表情を変えていくのだろう。
代表的な例が、モダンな造形で注目の「中央大橋」。平成5年に誕生した。中央に兜をモチーフとした白いシンボルタワーがそびえ、そこから放射状に張られたロープがつくる空間は、環境アートとしても美しい。橋脚には、パリ市から贈られたブロンズ像「メッセンジャー」が立つ。これは隅田川とセーヌ川が結んでいる友好河川提携によるもの。この橋の国際的な一面を語っているようだ。
続く「佃大橋」には、東京オリンピック(昭和39年)関連事業による架橋という背景もあると聞く。当時の技術を凝らした大ブロックエ法が活きている。
こうして隅田川は、やがて「勝鬨橋」を通り海へと向かうのだがーランドマークとして、634メートル「東京スカイツリー」が望める。時に高層ビルに隠れても、ちょっと角度を変えると現れる、その姿を探すのも面白い。
●主な参考文献=飯田雅男『橋から見た隅田川の歴史』文芸社/白井裕『隅田川 橋の紳士録』東京堂出版/墨田区立緑図書館編『隅田川の橋』…その他。